ガレキの山を見て思うこと

 先月の産経新聞に『被災地とアラスカを結ぶ“奇跡のゴール” 』という大きな見出しで、「岩手県の男子高校生のサッカーボールが、遠くアメリカ・アラスカ州の海岸に漂着した」という記事が載っていました。
 ボールを見つけたのは、アラスカ州ミドルトン島に住むアメリカ人男性。海岸を散歩中に、浜辺に打ち上げられていたサッカーボールを発見。奇しくも奥さんが日本人だったことから、ボールに書かれていた学校名を手がかりに持ち主を探したとのこと。このアメリカ人男性は同じ頃、漂着したバレーボールも見つけました。それも岩手県の女子高生のものと判明したことが報じられました。
 津波に呑み込まれた2つのボールが1年以上も大平洋を漂流し、海外に住む日本人によって再び持ち主の元に戻ってくるという奇跡的な話に、多くの人が驚嘆しました。

 こうした心温まる話とは対照的に、国内ではいまだ行き先の見つからない“ガレキの山”が、“復興”を妨げているとして大きな問題になっています。そこで今回は、なかなか進まない「ガレキ処理の問題」について、私たちが感じていることを少し述べてみたいと思います。

 “ガレキ受け入れ”と言えば、私たちが真っ先に思い浮かべるのは“石原都知事”の発言です。東京都は全国の自治体に先駆けて昨年9月に受け入れを表明し、11月には実施に踏み切っています。石原都知事は記者から、住民から寄せられた3千件近い反対意見に対してコメントを求められると  「放射線量を測って、何でもないものを持ってくるのだから『黙れ!』と言えばいい。放射能が出ていれば別だが、皆で協力して力があるところが手伝わなければしょうがない。皆、自分のことばかり考えている。日本人がダメになった証拠だ」と語り、毅然とした態度で反対意見を退けました。
 私たちは「さすが石原都知事!」と、リーダーとしての確かな決断力と実行力を見た思いがしました。そして当然、東京都に続いて他の自治体も次々に名乗りをあげるものと期待していました。
 ところが伝わってくるのは、知事や自治体の首長が受け入れを表明しても、住民の反対にあい実施に至らないというニュースばかりでした。

 東日本大震災で発生したガレキは膨大な量で、岩手県で一般廃棄物の排出量の11年分、宮城県では16年分に相当すると言われています。1年で処理されたガレキは、そのうちのたった7%程度に過ぎないとか。 “阪神・淡路大震災”のときには約1年でガレキの処理が完了していることを考えると、量の差はあるにせよ、比較にならないほど遅れていると言えます。1年が過ぎた今でも、山と積まれたガレキを見ながら生活している被災地の人々のことを考えると、本当に気の毒でなりません。政府の対応の遅さが指摘されていますが、私たちもそう思います。

 先日、環境省の「ガレキ受け入れ要請」に対して、「受け入れる」また「前向きに検討している」と回答した自治体が増えたというニュースが報じられました。確実に受け入れの輪が広がりつつありますが、はたして実施に至ることができるのか、一抹の不安がよぎります。自治体の首長にはぜひ、石原都知事のような指導力を発揮してほしいと願わずにはいられません。

 住民が反対するのには、「ガレキが放射能に汚染されているかもしれない」と懸念しているからです。特に子供を持つ親は、子供への影響を心配しています。私たちも子育てをしてきましたから、そうした親の気持ちが分からないわけではありません。しかし、被災した子供たちが“ガレキの山”に囲まれて生活している実情を思うと、本当に胸が詰まります。

 1年前には、日本中の人々が被災者の苦しみを自分のことのように感じ、「何とか少しでも被災者を助けたい。力になりたい!」という気持ちを強く持ちました。そして“絆”という言葉が盛んに使われ、日本中が一つになったかのように見えました。それが手の平を返すように、「ガレキを受け入れるのはイヤ!」というのですから、「あの時の気持ちはいったいどこへ行ってしまったのだろう……」と思えてなりません。被災地の人たちが、裏切られたように感じたとしても無理もないのではないでしょうか。

 私たちは、以前“スタッフだより”でも述べたように、「低レベルの放射線量であればそれほど心配する必要はない」と考えています。先日の産経新聞に、放射線リスクの専門家、ジェームス・コンカ氏の見解が紹介されていました。コンカ氏によると  「さらされる放射線の量が少しでも増えれば、健康への危険も高まる結果になるという見解には、科学的な裏付けはない。平均的な放射線被曝量の数倍から10倍浴びている何百万人もの核・原子力作業の労働者が、一般の人々よりガン死亡率が高いわけではない。アメリカ・コロラド州やワイオミング州に住む人々は、年間照射線量がロサンゼルス住人の2倍ながら、ガン罹患率が低い」と述べています。
 これを読んで、改めて「過度の心配は必要ない」と確信しました。反対者だけでなく、いまだに風評被害も絶えません。放射線に対して神経質に考えている人が多すぎるのでは……。
 ましてや、環境省が受け入れを求めているガレキは、原発事故のあった福島のものではなく、岩手県と宮城県のガレキですから“安全”が保証されています。それにもかかわらず、反対者は「政府の言うことは信用できない!」と拒否するのですから、これではもう、単に自分のことしか考えられない“エゴイスト”と言わざるをえません。

 被災地の人々を支援するのには、さまざまな方法があります。物資の援助・募金・ボランティア活動、また積極的に東北のものを買って経済を支えたいという人もいます。歌手が“チャリティコンサート”を開いたり、先日の連休には“ボランティアバスツアー”が全便満席だったとか。
 しかし考えてみれば、こうした支援は自分たちの生活の中で余っている物やお金や時間を差し出したに過ぎません。これらも立派な支援には違いありませんが、いわば「同じ日本人として当たり前の行為」とも言えます。
 一方、“ガレキの受け入れ”も同じ支援ですが、それらとは少し違っています。ガレキの受け入れには、「ひょっとしたら、自分や愛する家族が放射線の被害を受けるかもしれない」という“犠牲”がともなうからです。反対者は「何もガレキを受け入れなくても、別の方法で支援していきます」と言いますが、本音は「犠牲になりたくない」ということなのです。それでは“本当の愛”とは言えません。
 私たちは、犠牲がともなってこそ“本当の愛”だと考えます。“真の利他愛” とは  「相手のため、苦しんでいる人のために自分や自分の大切なものを犠牲にすることを惜しまない行為である」と思います。ですから、「たとえ放射能に汚染されているガレキであっても、国民は可能なかぎり受け入れるべきである」というのが私たちの考え方です。そしてそれが「苦しみを共に分かち合う」ということであり、それができてこそ、人々が“本物の絆”で結ばれるのではないでしょうか。

 大震災から1周年を迎えた3月初旬、野田首相が  「ガレキ処理は、日本人の国民性が再び試されている」と述べていました。民主党政権には、すべての面においてあまりの対応の遅さ・まずさに呆れるばかりですが、首相のこの言葉は私たちもその通りだと思います。日本人がかつて持っていた崇高な“犠牲精神”を呼び戻すことができるか、“豊かな精神国家”へと生まれ変わることができるかが試されているような気がします。


 ガレキの問題では、反対者の声ばかりが強調されていますが、本当は賛成している人の方がずっと多いはずです。そうした人たちが勇気を出して声をあげれば、きっとガレキは見る見る片づいていくのではないでしょうか。
 一日も早く“ガレキの山”がなくなり、復興がスムーズに進むことを心から願っています。